「徒桜〜あだざくら〜」

 九尾の目論んだ「星降り」は頼光の手によって阻まれ、都には再び、一時の安寧が齎された。
 そして、それは同時に彼の者に課された役目の終わりであり―――
 頼光は再び、眠りに就かなければならないのだという事を意味していた。






 天の麓。
 清廉な気に満たされたその地に再び庵を構えた晴明は、座して頼光と向き合っていた。
 ―――こうして頼光とまみえるのも、今宵限り。
 千々に乱れる心を押し隠し、努めて平静を装うと、晴明はおもむろに口を開いた。
 「頼光。此度の事では、まこと苦労をかけました。」
 頼光を労う穏やかな声が、宵闇の静寂の中に響く。
 「一つだけ……尋ねてもよろしいか?」
 「……。」
 無言で頷いた頼光に、晴明はあの時抱いた疑念を口にする。
 「貴方は……九尾が殺生石と成り果てた際、臆する事なくあの強大な気の塊を打ち払おうとなさいました。
……勝算はあったのですか?己が消え失せるかもしれない、という不安は無かったのですか?」
 もしあのまま殺生石と共に地に叩きつけられていれば、いくら頼光と言えどもひとたまりもない。
 それとも己の―――『死』を知らぬはずの異世の住人をも屠る、その力を信ずればこその行動か。
 「……不安は、無かったと言えば嘘になる。」
 暫しの沈黙の後、厳かに口を開いた頼光の言葉に、晴明は戸惑いの表情を見せる。
 「ならば、何故……ああも躊躇わず、殺生石に立ち向かわれたのか?」
 「……理由が、必要なのか?」
 眉根を寄せる頼光に、晴明は伏目がちにゆっくりとかぶりを振る。
 「いいえ……ただ、私自身が知りたいだけ……他意はございませぬ。」
 「……。」
 互いに俯き押し黙り、再び場に訪れる沈黙。―――それを破ったのは、頼光の方だった。
 「……都に降り注ぐ無情の雨など、もう、見たくはなかったのであろう?」
 静かに紡がれたその言葉に、晴明ははっと顔を上げる。
 「頼光……。」



 それはかつて……奈落に落とされた頼光が、現世へと舞い戻りし際に吐いた弱き言葉。
 ―――何て理由。そして……そんな理由のために、何て簡単にその身を投じてしまえたのだろう。



 「……貴女を、泣かせるつもりではなかったのだが。」
 困惑した頼光の言葉に、晴明は知らず己が涙を流していた事に気付いた。
 「いえ……貴方の咎に非ず。私の心が弱き故なれば……。」
 涙を拭いながらぎこちなく笑う晴明の頬に、頼光はすっ、と手を伸ばす。
 「頼……っ……。」
 呼ぼうとした名は、頼光によって封じ込められた。
 「……すまぬ。」
 触れるだけの口付けの後、慌てて身体を離すと頼光が詫びる。
 まだ温もりの余韻が残る唇に、晴明はそっと指を当てた。
 「……頼光……。」
 それだけの事に、頬が上気していくのが自分でも分かる。
 まるで、只の小娘のように……いや、この男の前では只の小娘になってしまう己がいる。
 幼子が不安に震えて母の衣に掴まるように、晴明は恐る恐る手を伸ばして頼光の袖に縋った。
 「頼光……。」
 もう一度、消え入りそうな声で呼んだその名を合図に、どちらからともなく再び唇を重ねる。
 「…ふっ……ぅんっ……。」
 薄く開いた晴明の唇の隙間から、頼光の舌が差し入れられた。
 晴明は戸惑いつつもぎこちなく応じ、互いを貪るように舌を絡め合う。
 そのまま晴明の身体を床に倒して組み敷くと、頼光は低い声で一言問うた。
 「晴明……良いのか?」
 こくり、と頷いた晴明の顔に掛かった黒髪を払うと、その額に口付けを落とす。
 纏っていた衣を剥がれ、露になった白き肌を頼光の唇が伝い、幾つもの紅い痕を散らしていった。





 晴明とて闘いの際、傷を負うのには慣れているし、疼痛に耐えるだけの鍛錬は積んでいるはずである。
 しかし、かつて味わったことのない類の……情交に於ける苦痛は如何ともし難いものであった。
 初めてであった先日よりは幾分ましになったとはいえ、未発達である晴明の女としての性は、このような行為に於いて、悦楽よりも痛みの方を享受してしまう。
 敷布をきつく握り締めながら、眉根を寄せて晴明は耐える。
 声を上げまいと必死に噛んだ唇に頼光が舌を這わせると、僅かに血の味がした。
 「……晴明……。」
 頼光は出来るだけ負担を掛けないよう律動を抑え、晴明の身体中を丹念に掌でなぞっていく。
 緩やかな愛撫に身を委ねる晴明の内に、微かにではあるが痛みとは別の感覚が生まれ始めていた。
 「……んっ…あぁ……はあっ……。」
 時折、言葉にならない甘やかな喘ぎが口をつき、背筋を走り抜ける快感にぴくりと身体を震わせる。
 汗ばんだ肌に貼り付いた黒髪が、晴明の妖艶さを際立たせていた。



 ―――我は人に非ず……この身は女に非ず。ずっとそう思ってきた。
 だが、頼光の施すその手技に、拙いながらも反応を見せ始めている己は、確かに女そのもので。
 このような様を他の者が―――あの芦屋道満などが見たら、どのように思うであろうか?


 徐々に煽られていく熱を内に感じながら、晴明は瞳を閉じる。
 心の中を、今まで抱いたことのない感情の嵐が渦巻くのが分かった。

 頼光を近くに感じるほどに、後に確実に訪れる別離への恐怖が膨らんでいく。
 「……晴明……。」
 愛おしげに名を呼ぶ低い声も、己を掻き抱く力強い腕も、触れ合った所から伝わる熱も。
 全ては喪われ……そして恐らく、二度と還ることはない。
 以前の己ならば、決して抱くことも無かったであろう感情―――
 ただ一人の男を愛おしいと想う気持ち、想いが通じ合ったその至福。
 ……そしてその先に待ち構える、別離という名の絶望。
 人としての……女としての悦びを知ってしまった今、彼女の思考は徐々に闇へと向かっていった。

 「んっ…は…ぁんっ…あぁっ……。」
 頼光が動く度に湿った音が響き、晴明が甘い声を上げる。
 次第に激しさを増していくその律動が、晴明を少しずつ高みへと導いていった。


 世の女たちは、斯くも切なく苦しい想いを抱いて、時にその身を滅ぼすのか。
 晴明は陰陽師として、狂おしい程の恋慕の果てに人の道を外れてしまった女に見える事も度々あった。
 傍から見れば何とも愚かで……自らの心に忠実な者達。
 特定の者―――母たる九尾にすら持ち得なかった感情を目の当たりにし、困惑することもあった。
 しかし……今なら分かる。恋焦がれた相手を喪う恐怖とはこのように辛いものなのか。
 そして、そこから逃れようと足掻きたくなる心情も……。

 ―――いっそこのまま、永遠に時を止めてしまえれば。
 ―――いっそこのまま、永遠に彼を留めてしまえれば。

 それは……決して許されることではない。
 力があるからこそ、犯してはならない領域があるのは分かっている。
 だが、その誘惑は抗いがたいものとなって晴明を苛んだ。

 そんな晴明の思考を打ち砕くかのように、頼光は熱い楔を穿ち続ける。
 己の存在すら心許なくしてしまうかの如きその悦楽に、自然頼光に縋る腕に力が篭もった。
 「くっ……、…はっ…ああっ……。」
 最早唇から漏れるのは、意味を成さぬ喘ぎのみ。
 耳を擽るその吐息は、頼光の官能を刺激し、滾らせるに充分過ぎるものだった。
 頼光はより激しく、内を抉るかの如く己が刃を突き立て、晴明を苛み続ける。
 「…あ、ああぁっ……!!!」
 与えられる快楽の奔流は遂に晴明を押し流し、一際甘き嬌声を上げて果てた。
 「……っ……!」
 刹那遅れて頼光も律動を止め、その最奥に己が欲望を注ぎ込んだのだった。





 きつく閉じられた晴明の瞳から、涙が一筋つうと零れ落ちる。
 「……すまぬ、辛かったか?」
 頬に貼り付く黒髪を掌で払いながら気遣う頼光の言葉すら、今の晴明の心には酷く悲しく響く。
 「いいえ……平気です、頼光……。」
 ゆっくりと頭を振る晴明の様子に、頼光は溜息をついた。
 「無理をせずとも良い。貴女が辛いのなら……。」
 気遣う頼光の言葉に再び頭を振って、晴明が潤んだ瞳を向ける。
 「貴方の優しさは……時に、残酷ですね。」
 「残酷……?」
 晴明は、眉根を寄せる頼光に儚く笑ってみせた。
 「……いっそ非道くされたなら……貴方を喪う事を、こんなにも怖れなかったであろうに。」
 「晴明……。」
 「このまま……貴方の腕の中で、共に常しえの眠りに就いてしまいたいと……愚かな考えに憑かれる事もなかった……。」
 「……貴女は気丈な方だ。今までも、これからも……一人で歩んでいけるだけの強さを秘めている。」
 頼光のその言葉に、晴明は両の掌で己の顔を覆う。
 「本当に……賢しい事を言う。そうやって釘を刺し、私が後を追おうとする事すら許しませぬか。」
 静かに涙を零し続ける晴明の艶やかな黒髪を優しく梳りながら、頼光が困ったようにあやした。
 「今宵の事も、訪れる別離も……貴女の哀しみは、永き時が思い出へと変じてくれよう。」
 「……容易いとは思えぬが……。それでも、貴方が救ってくれたこの命、無下に捨てる訳にもいかぬ。
 それは、分かっておりまする。……けれど……。」
 「……すまぬ。」
 再び謝する頼光の首に二の腕を回して縋りながら、嗚咽混じりに晴明が囁く。
 「私は……斯くも愚かしい事に、……貴方を喪いたくない、と……あらぬ考えに、囚われている……。
 貴方と共に逝けぬのなら……貴方を、このまま……我が力の及ぶ限り、現世に留めてしまえば、と……。」
 「晴明……貴女は聡い。それが、自然の理に反している事だとわきまえている……。」
 言外に窘める頼光に、晴明は再び頭を振る。
 「……いいえ……私は、それ程強くも、聡くもない……。」

 いけない。これ以上弱音を吐いては……頼光を困らせては。
 彼に醜態を晒し、堕ちた女よと失望されたいのか―――否。
 ならば最期の刻まで、彼が愛してくれた気高き『安倍晴明』で在り続けるのが我が役目。
 堂々巡りの思考に終止符を打ち、晴明はゆっくりと腕を解き、頼光の顔を真っ直ぐに見つめた。

 「……否。確かに強く、聡かった筈なのに。……貴方が、私の心を斯様にも弱くしてしまったのだ。」
 健気にも気丈に振舞う晴明の言葉に、ほんの少しだけ困ったような表情を見せて頼光が言う。
 「確かに……その通りだ。」
 「我が心を、かくも脆く変じさせてしまったこの恨み……決して、忘れませぬ。」
 ぎこちなく微笑んでみせた晴明に、頼光も微かに笑って応じた。
 「その言葉、ゆめゆめ違えることのなきよう。」
 言いながら頼光は手を伸べ、晴明の身体を再び胸の内に掻き抱く。
 「……勿論です、頼光……。」




 どんなに時が流れても、決して忘れない――――頼光が、確かに此処に在ったということを。
 耳を擽る低く心地良い声を。輪郭を優しくなぞる無骨な指を。肌に落とされる口付けの感触を。
 頼光の与えてくれた全てをこの身に焼き付けて、己は永遠に近い時間を生き続けるのだ。





 ―――そして何度も互いを求め合い、空も白み始めた時分。
 小袖を纏った頼光が立ち上がり、傍らに立てかけてあった己の祭器を手に取る。
 「晴明……頼みがある。」
 神妙な頼光の面持ちに、晴明は身を起こして衣を羽織る。
 座して改まった晴明の前へと、奉魂の剣が差し出された。
 「我が眠りに就く際には、この剣で……その手で、我が身を貫いて欲しい。」
 思いがけない頼光の言葉に、晴明は瞳を細める。
 「我を呼び覚ましたのは貴女なれば、その幕引きを己が手でするのも道理であろう?」
 「……分かりました。では……。」
 承諾の意を表すと、晴明は手を伸ばし剣を受け取ろうとする……が。
 頼光は剣を下ろすとゆっくりと頭を振った。
 「すまぬ……卑怯な物言いであったな。」
 「頼光?」
 晴明の視線を真っ向から受け止め、頼光は再び言葉を紡ぐ。
 「これは……最期は、貴女の手で眠りに就きたいと願う……只の我儘に過ぎぬ。
 我が魂が再び深き眠りの淵へと落ちる最期の一刻まで、貴女を傍に感じていたい。
 ……それが我が望み。叶えてはくれまいか、晴明?」
 言いながら再び差し出された剣を、晴明は精一杯の笑顔を作りながら受け取った。
 「それが貴方の望みならば……謹んでお受け致しましょう。」


 それがどんなに残酷な事であるか、分かっている。
 己が手で愛しき男の霊肉を貫き……眠りに就かせるなど。
 それでも、頼光の願いであるならば、受け容れずにはいられなかった。
 何故なら……それは、かつて己自身も望んだ事でもあるから。
 ―――白珠を身に宿し、蝕まれた身体で刃を交えた、あの時。
 愛しき男の手による『満ち足りた死』を迎える事が出来る、と。
 密かに悦んだ自分が、確かにいたのだ。
 ……結局彼は、甘美な死を与えるのではなく、修羅の如き生を齎したけれど。
 だが、それで良かったのだと……そう、己に言い聞かせる。


 「……もう一つだけ、頼んでも良いか?」
 「何なりと。」
 「貴女の……舞が見たい。」
 頼光の言葉に、晴明はほんの少しだけ困惑した表情を見せる。
 「貴女の戦う様は、さながら舞うが如く美しいのは良く存じ上げている。
 だが……安寧の世が訪れ、斯様な血生臭い舞を舞う必要も無くなった今……
 神の心をも慰める舞、我が眠りに就く際に……我の為だけに奉じてはくれぬか?」
 晴明は一度目を伏せると、ゆっくりと頷いてみせた。
 「その願い……確かに承りましょう。」



 貴方が安らかに眠りに就けるように。
 そして……貴方が決して、私を忘れないように。
 あらゆる想いを込めて、舞ってみせましょう。
 誰の為でもない―――ただ一人、本当に愛しき貴方の為だけに。
 それが、私が貴方に出来る、唯一の手向け。



 「かたじけない。」
 微かに笑う頼光にしなだれかかり、その広い胸に頭を預けると、晴明は静かに瞳を閉じた。
 「晴明?」
 「頼光。……今だけ……こうして、貴方の温もりを感じさせてくださいませ。」
 「……承知。」
 艶やかな黒髪を梳りながら、頼光もまた、晴明の温もりを心に刻み付けていた。








 ――――そうして逢瀬の夜は明け、最期の朝が訪れる――――